時と場合によって変わること
- 吉岡 俊史
- 4 日前
- 読了時間: 3分
前のブログでは、テレビとスマホなどの「同時並行」をテーマにしました。
そのテーマに関連して時と場合によってまったく違う評価になってしまう、ということについて書かせていただきます。
そもそも、同じ言動でもなぜ〇になったり✕になったりするのでしょうか?
たとえば、前のブログでも挙げました、大声で叫ぶことが盛り上がりになるコンサートや宴会である一方、図書館では?というのはわかりやすい例です。
「その場所のルールがあるから・・」というのが大方のご意見かと思います。
しかしそのルールは、誰がどこで教えて下さるのでしょうか?館内に掲示していなかったら、自分の”常識”で判断するしかないのでしょうか。。。
サポートを得ながら就職をしたい、という想いのある方が利用されている、就労移行支援事業所ユースターですが、ユースターの活動の中で、同じ行動でも、〇となる場面や、✕となる場面がある、ということを知り、社会性のある行動を考えるプログラムがあります。
上記のような例であれば、どなたでも「そうですね」と受入れてくださると思いますが、いざ他の場面で、自分が場面を読んで、〇の行動をとれるのか?それを判断できるか?、となると簡単にはゆかないときもあるのではないでしょうか。
なぜ簡単ではないのか?あくまでユースターに関わる方との経験からではありますが、その理由はいくつかあるのではないかと思うのです。
一つめは・・・
自分の判断は,過去の経験や会得したもの・・獲得した情報を元になされるものであるからです。
それは、今や広く浸透している生成AIと似ています。
生成AIは瞬時に答えを出してくれる優れたツールですが、過去のデータしか基にできません。つまり生成AIも人間も、過去の経験を基に色々な判断をしているからです。
そして、過去の経験は個人差が大きいので、その経験の内容や量によって、社会や他の人は✕でも自分としては〇。と判断することもあり得るのです。
社会という空間で、未経験なことに遭遇したときに取るべき行動を考えるとき、条件や情報が無い中で先を読むのは、人間の持つ想像力や洞察力、予見力を使わないといけないのだと思います。ユースターの活動を通して、それらの力を自分なりに磨いていただければと思っています。
そして、二つ目の理由としては・・・
こちらの理由が大きなテーマとなります。それは、そもそも、私達の身の回りにある全てのものを残らず〇や✕に分類することができないからです。
〇と✕の間に△があったとしても、その△にも属さないものすらあるからです。
数学の勉強やマークシートに出題されるような問題は、〇と✕で決められます。
しかしそれ以外のものが社会には多くあります。
中でも「時と場合によって。。」という言葉に表現されるとおり、〇が✕になったり△になったり・・・というものも存在します。
前のブログの「同時並行」も、ときには周囲から尊敬されますが、別の時や場面では受け入れられないということと同じです。
たとえば、話しを聞きながらメモをするのも同時並行にはなるのだと思います。例えば、相手と話している間、ずっとスマホに目を落としてスマホ上にメモを取っていたとします。相手から自分を見た印象は?などを考えたいと思います。メモを取るスキルはとても高いスキルです。しかしそのスキル自体も「使い方、使う場面」を合わせてゆかないと生かされない場合もあるのです。
とてもややこしいです。。。。

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