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執筆者の写真吉岡 俊史

誤解したまま?②

コミュニケーションって本当に難しい・・・と感じます。特に言葉を使った意思伝達は間違いが生じやすいと実感しています。

相手に丁寧に伝えようとすると、とてもまわりくどくなったり、何が言いたいのかわかりにくくなったり、だからといって単刀直入に言うと、命令口調になったり・・・とても厄介です。もちろん内容だけではなく、抑揚、選ぶ言葉、タイミング、そして国民性なども影響してしまいます。

日本人の国民性についていえば、日本人の奥ゆかしさは、時には言葉を濁したり、逆の表現をしたり、何も言わないことが答えだったり・・基準やルールが誰にでもわかりやすくなっていない分、自分の経験と勘、センスや想像力などを駆使して相手の本心をつかまないと、本当に伝えられた内容がわからない場合があります。

それだけ難しい言葉でのコミュニケーション・・奥深いです。言葉による誤解の全てを解決する方法はありません。文字にしたもの、画像など伝えると良い、と言われることも多いですが、毎日、生活の中で、それらを実行できるのか?と問われると、そう簡単ではないのです。


となると、時には「一定程度は誤解されて伝わっている」ということを容認しながら、会話をしてゆかなければならないかもしれません。


私は、会話の一部を相手が誤解していることを察しながらも「それでも良いかも・・」「それもアリ」と思ってしまう時があります。

むしろそれは誤解ではなく、聞き手の想像にお任せしている、つまりコミュニケーションの伸びしろのような部分なのだと思っています。


「この食べ物好きですよー」

と言っても「どこまで好きなのか」までは言っていません。「嫌いではない」程度かもしれませんし、自分にはこの食べ物が不可欠「これがあれば何よりも幸せ」と心酔しているのかもしれません。


でも、相手はそれ以上つっこんで聞いてこないことも多いです。つまり、相手はどこまで好きなのか、ということよりも、嫌いでなければよかった、それ以上の情報は今は不要・・・ということなのかもしれないのです。

お互いが暗黙の理解をしたのかもしれないからです。さらに言うと、そのお互いの暗黙の理解が違って、誤解されていても、大きな問題ではない、負える程度のリスク。。という事だと思います。


勝手な解釈ですが、むしろ「誤解」は人と人との間の潤滑油だったり、クッションだったり、緩衝材になることもあり得ると思います。

そう考えると「誤解のまま」で終わらせる事も、絶対だめではなく、時にはアリかもしれませんね。


二人の人が会話をしている足の部分の写真
会話の誤解は、時にはあっても良いかもしれません。緩衝材の役割として、ある程度誤解して欲しいときも?






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