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執筆者の写真吉岡 俊史

親なきあとを考える⑤

「親なきあとを考える」で続けてきましたシリーズ⑤です。

本人の将来の親や家族のいない生活について(一般的に使われる言葉を使って言いますと)障がいが重い場合軽い場合・・・を書かせていただきます。


障がいが重いために、厚いサポートが必要か、そこまで必要ではないか・・を「誰が言っているか」によって、その方の障がいの状況とサポートの有り方がわかることがあります。

どういうことかと言いますと、日常の生活(入浴、食事など)に誰かのサポートが常に必要である場合、本人もそう思い、身近にいる方も一致していると、障がいの程度は比較的重いが、支援は統一感を持ち、関係者間でのサポートの方法に合意をとりやすくなります。


一方、本人障がいは極めて軽く、一人で大丈夫、とおっしゃるけれども、社会の道理に合う行動がとれず、何が良いのか判断も困難だが、一人で行動ができるがために、社会でトラブルに巻き込まれたり、暗黙の決まり事(”常識”と言われるもの)と自分の認識が合わず、社会生活がしにくくなったり・・そのような場合、本人にとっては、サポートは少なくて良いものの、周りの方にとっては、種類の違う厚いサポートが必要と感じる、という場合があります。その場合は、サポートの量や方法について、本人の合意がとりにくい場合もあります。


就労の場面でありうるのは、職場の暗黙のルールが理解できなかったり、社会人としての行動がとれずに、仕事の遂行や人間関係に支障をもたらすため、企業は「本人の理解度がわからず・・どう指導してもわかってもらえなくて」と言う場合もあるのです。


法律や医学的に設けられている障がいの基準は社会生活との間の障壁や、支援の量を考えたものではあるのですが、まだそれでも、その基準が実際に社会で生活したり、会社で働いてみると、そこに起こる困難の程度に合致していないことも起こっているのです。


家族は、本人の成長を継続的に見守っているので、本人は何にサポートが必要かを良くご存じです。


ある例を挙げます。。。

○○さんは衣食住の生活(A)は成り立っても、一人では決して生活(B)はできない・・・ということがあります。

そこでいう生活(A)と生活(B)は種類も内容も全く異なるものです。

では生活(B)とは何か?を具体的に知ることが重要なのです。


すでに一人で社会で生活をしている方であっても、生活ができているとは限りません、生活(A)ができているだけで、生活(B)に大きな困りごとがあるかもしれず、本来はフルサポートが必要な方なのかもしれないからです。


社会や会社の組織内での他の人とのトラブル、社会との不整合があったとしても、本人は気づいている場合と気づいていない場合があります。家族は本人を良く知りますので「想像」はついていることが多いです。

それだけに、家族は「うまく生活(B)や就労はできているのだろうか?」と漠然とした不安を持ち続けてゆくことになります。

今は一人生活(A)ができているから、将来親なきあとも、生涯に渡って一人で大丈夫という単純なものではないことは、家族が感じることなのです。

そして、法律、医学的に障がいが軽いと言われてしまうがゆえに、家族の不安は複雑化してしまうのかもしれません。


結局は、親なきあとの問題や不安を全て解決する方法があるわけではありませんが、むしろ何が無いことによって、本人の周りの方は不安なのか、その方一人一人について深く悩んで・・考えて・・最良と思われる方法を決めてゆく、それしかないですし、それがベストであると思うのです。

それを全て親や家族が行うのは大変は負荷です。ですので、周りの人、支援者なども含めて親あるときからの行動です。

きれいごとではなく、家族、親、周りの方の想いが深く多いだけ、その方の生活(特に生活(B))が良いものになってゆくと考えるべきかと思います。


親なきあとの問題や不安を全て解決する唯一の方法が存在してしまうと、個性あるそれぞれの生き方を一つのパターンに当てはめてしまうことになりかねないです。

人生は・・生き方は・・夢や生き甲斐はそこまで単純ではないと思うべきなのだと感じます。


一人生活のレイアウト写真
生活(B)、本人は問題無しと認識。周りの人は不安。それは何なのか、どう整えるか・・



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